北東北遺跡群に夢馳せる古代人の暮らし

約20万年前アフリカで誕生したホモ・サピエンスは、4万〜5万年前にアジア東部へ到達し日本列島には3万5千年前ごろにやって来たと云われていますが、まだはっきりしません、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録され日本人のルーツとともに古代人の多彩な暮らし方に注目されています。

石器時代の洗練された道具や縄文時代のユニークな土偶や土器と弥生時代の定住と耕作と古代の暮らし方は謎に満ち、ロマンです。

北東北の縄文遺跡群の発掘、研究から少しづつ生活の姿がわかって来ています。狩猟から作物の農耕とともに、雑穀と呼ばれているひえ、あわ、きびが主食になり煮る、焼く、蒸す、蓄えるなどの調理の暮らしが根ずいてきたことが解明され、衣食住の生活インフラは今も変わらないことが証明されてきました。

北秋田市のハケノ下遺跡の発掘調査からも縄文時代から平安時代への長い暮らしの文化が見えてきました。

稗(ひえ)、粟(あわ)、黍(きび)のこと。

“冷えに強いから、ひえ”と呼ばれ土壌も選ばず寒さにも強い超優等の救荒作物で稲が伝わる以前からの古代食です。常に飢饉を救ってきた栽培作物として「日本書紀」の保食神の神話に登場する食物です。

「あわ・粟」は縄文時代には栽培が始まっていて麦より珍重され「古事記」にも登場する作物です。奈良時代には米とあわが正規の租税として使われ明治の始めでも米よりあわの栽培量のほうが多かったそうです。名前の由来は、「味が淡いから」あわと呼ばれ、阿波の国はあわが多く栽培されていたからとか。ひえ、あわは古代食の主役だったのですね。

「きび・黍・黄米」は、古代中国では最高級の主食で日本には、ひえ、あわより遅れて伝わり奈良時代の「万葉集」に登場します。

桃太郎の鬼征伐に「ついて来るならあげましょう、きび団子」とありますから、今のように“十把一絡げ”で雑穀と呼ばれるのも心外ですね。21世紀のスーパーフードなのにね。

詩(うた)でつなぐ雑穀文化

中国の少数民族、ミャオ族はタイやミャンマーなどにも住む山岳民族ですが、お祝いの時には餅をつき、稲の収穫が終わる“収穫祭”には日本と似た大きな鏡餅をついて神々に供えるそうです。文字を持たないミャオ族は歌を唱って民族の物語を伝承しています。

「もち米はまだ熟れてないか

 うるち米はとっくに倉の中に入ったで

 うるち米は言った“さあ来いよ、来いよ”

 もち米は言った「まああわてるな!”

 熟れたおまえは先に行け

 熟れたらおれもあとから行くわい

 おまえは先に酒になれ

 おれはあとから餅になる

 酒はアチャオの結婚祝いに

 餅はチンタンの新室宴に」

こんな歌で雑穀文化を伝承しています。宮崎県のひえつき節もあり、ミャオ族の藍染や刺繍、餅つきと日本文化のルーツを感じますね。

※歌詩出典:岩佐氏健 訳「ミャオ族民間長歌

自然の「シードバンク」“雑穀”

一万年続いた縄文時代は現代の二千年程のカレンダー文化と比較すると気が遠くなります。今、縄文文化がブームで全国で縄文遺跡の発掘が進み、狩猟の道具や生活土器に付着したタネの痕跡、祭礼に使われた土偶など暮らしの様々な姿が解明されてきました。

弥生時代になって定住生活が始まると、農耕文化も定着し稲作も始まって暮らし方の形式は現代に近づいてきました。

人類の長い食文化を振り返り、ノルウェー政府は100国以上の支援を受けて「スヴァールバル世界種子貯蔵庫」を2008年に永久凍土層の地下に設けて約4000種、93万品種のタネを冷凍保存しています。この「シードバンク」が人類の未来を支える基盤かと思うと少し勇気がもてます。

人類誕生と付き合ってきた長い歴史のある雑穀たちは“自然のシードバンク”としてスーパーフードの地位を繋いでいることに、改めて雑穀の価値を感じます!

スローフードの本当の始まり!

世界の人口がこれから“増から減”に変わると伝えられていますが本当でしょうか。人口減は食糧生産や労働力、市場や流通と大きな変化をもたらすことになります。

これまでのファストフードやファストライフの台頭から食の見直しが始まりそうです。

1984年イタリアから始まった“スローフード運動”が本格的に再出発するのではないでしょうか。

地産地消の徹底、地域の素材を活かした食生活や食文化の再考。

環境に配慮した作物の生産や伝統食の注目、生産者と生活者をつなげる地域づくり。

食問題や課題の正しい情報発信と生活習慣病を根本から改善する取り組みが必要です。

人類が築いたスローフードの食文化雑穀食の伝統を今一度、辿る時代です。

スーパーフード雑穀は、ウィズ コロナへの新しい“スタートアップ”をします。

“雑穀文化財”のスタートアップ

奈良時代になって白米が貴族の主食として登場し、鎌倉~江戸時代には白米はあこがれの食料で主食とは程遠い存在でした。
昭和16年、米穀配給制度が始まり、31年にはコシヒカリが登場し「白米主義」が浸透し、集約的な栽培管理、施肥の進歩、高い収量を上げる育種、品種改良、大農式農法と近代農業技術が“雑穀”を駆逐することになります。
昭和56年、食糧管理法が廃止され米の配給制度が終わったのが56年前ですから夢の白米食の座も短かった気がします。
一方、雑穀は一絡げにされ人類の歴史とともに食の道を歩み続けてきたことを考えると“雑穀文化財”として未来につなぐべき食材ですね。21世紀に入って植物栄養素が注目されそのエビデンスが健康の維持増進を支えるスーパーフードとして浮上しています。飽食の時代、人生100年時代と言われる今、改めて“雑穀文化財”としてその意義を問うスタートアップが始まっています。

雑穀と呼べない「そば」ですが。

今では「そば」は麺として食べるため雑穀呼ばわりをしませんが、古くはアワやキビと同じ雑穀でした。高知県の遺跡からは9,000年以前のそばの実が出土しています。そばの実は奈良や平安時代には粒としてそば粥で食べられたり飢えを凌ぐ非常食でした。麺になったのは江戸時代からで、そばがきとそば切りと区別され「切そば」はファストフードとして広がりました。近年蕎麦屋のメニューに韃靼そばが加わりましたが、1840年にドイツの植物学者ゲルトネルがモンゴルに住むタタール民族が古くから栽培していたため彼らを表す“韃靼”から「韃靼そば」となったそうです。少し苦味があるのが特色ですがポリフェノールの「ルチン」の含有量が普通のそばの120倍も多く、毛細血管の弾力を上げ血圧降下作用を高め、成人病予防に有効と高く評価されています。そば粥やそば茶としても粒や粉もありますが「そば」は雑穀から自立したスーパーフードですね。

雑穀づくりと“ことわざ”

山の残雪が馬の形になったら田植えの時節と、地域によって言い伝えがあるように東北地方にも雑穀づくりにタイミングや作業を愛でることわざがあります。
・「八十八夜にあわを播け」
地方によって温暖差があり一般には百五の別れ霜(5月20日頃)が適切なのですが、東北では八十八夜の半月後頃からあわ播きの適期となるとのことです。
・「あわの一粒は汗の一粒」
あわ栽培の管理が大変なことからあの小さな一粒一粒に汗がにじむ苦労があるとの例えです。作物栽培に共通することわざかも知れませんね。
・「若い者ときびの穂は盆には出る」
きびの穂は順当ならお盆に出るように村の若者は当然盆踊りにはでかけなさいと若者を後押しすることわざです。
雑穀の農作業にも愛情のある“ことわざ”がたくさんありますね。

“酒と女と祭り”

ちょっと気を引くタイトルにしましたが雑穀の話です。酒造りの元祖は猿で木の祠などに木の実を貯めて自然に発酵したものが “猿酒”で、人間も縄文時代から酒を作っていたことがわかっています。
西洋では葡萄酒づくりに乙女が足で踏んで新酒を作ったり、日本でも地方によって酒造りは女性の仕事となっていました。
酒の原料も多種多様で古くはキビやアワなどの雑穀で作られ、酒は神に捧げられふるまい酒として祭りや収穫祭に欠かせない飲み物として伝承されています。
飛騨のどぶろく祭りや台湾の栗祭りなど、酒は清めの御酒でありふるまい酒として生活文化の必需品でした。
酒は百薬の長といわれたり、禁酒法の時代があったりで何かと物語の主人公になりがちですが、江戸時代から“酒なくて何の己が桜かな”と、長く人生の潤滑油なのです。

雑穀食がもたらした“飯碗”文化

子供の頃から手に茶碗を持って食事するのが日本の食文化でしたが、世界と比較するとどうやら異なります。西洋は皿とナイフとフォークの食卓ですし、身近な中国や韓国でも茶碗を口につけて箸で食べる習慣はありません。陶器も有田焼や清水焼、備前焼、九谷焼と賑やかですし、味噌汁やお吸い物をいただく輪島塗などの漆器の椀と日本独自の食器なのですが、この食生活のルーツは雑穀食がもたらした食文化だと言われています。
白米を主食とするようになったのは、戦後ですがそれまでは、古来の糅飯や雑炊が中心でしたから日常的に使って食器も碗(椀)と箸(短箸)で飯碗を口につけて箸でかきこむ食生活だったのです。
雑穀を様々な形で主食にしたため今の手で持って口元に運ぶつつましやかな“一汁一菜”の食文化が根づき、陶器や漆器の椀でなくても一人ひとりの決まった食器で食事をする文化は雑穀食がルーツなんですね。