秋田の”餅”考

江戸後期の民族研究家、菅江真澄は長く秋田に暮し柳田国男に民俗学の祖と言わしめた人物です。 

その菅江の残した膨大な食の記録の中で特に秋田県各地の「餅」に関する記述があります。正月行事の餅、年中行事の餅、お菓子の餅、救荒食としての餅や凶作時に村人が考案した餅、マタギの餅やキリタンポ、ダマコモチの元祖のような餅にいたるまで、その食べ方や調理法まで記述は細部にわたっています。 

「餅」と言えば、もち米を使った白餅ですが当時は赤米やきび、あわの雑穀餅、豆餅やとち餅など多用な食材を使って作られました。餅は稲作が伝来し、蒸す技術が普及してきた弥生時代頃からひと手間かけて作られることから神に供える食物でした。 

日本では正月などの祭事に食べる慣習がありますが、岩手県では一年を通じて餅を食べる日が決められた「もち暦」があるそうです。