“雑穀文化財”のスタートアップ

奈良時代になって白米が貴族の主食として登場し、鎌倉~江戸時代には白米はあこがれの食料で主食とは程遠い存在でした。
昭和16年、米穀配給制度が始まり、31年にはコシヒカリが登場し「白米主義」が浸透し、集約的な栽培管理、施肥の進歩、高い収量を上げる育種、品種改良、大農式農法と近代農業技術が“雑穀”を駆逐することになります。
昭和56年、食糧管理法が廃止され米の配給制度が終わったのが56年前ですから夢の白米食の座も短かった気がします。
一方、雑穀は一絡げにされ人類の歴史とともに食の道を歩み続けてきたことを考えると“雑穀文化財”として未来につなぐべき食材ですね。21世紀に入って植物栄養素が注目されそのエビデンスが健康の維持増進を支えるスーパーフードとして浮上しています。飽食の時代、人生100年時代と言われる今、改めて“雑穀文化財”としてその意義を問うスタートアップが始まっています。

雑穀と呼べない「そば」ですが。

今では「そば」は麺として食べるため雑穀呼ばわりをしませんが、古くはアワやキビと同じ雑穀でした。高知県の遺跡からは9,000年以前のそばの実が出土しています。そばの実は奈良や平安時代には粒としてそば粥で食べられたり飢えを凌ぐ非常食でした。麺になったのは江戸時代からで、そばがきとそば切りと区別され「切そば」はファストフードとして広がりました。近年蕎麦屋のメニューに韃靼そばが加わりましたが、1840年にドイツの植物学者ゲルトネルがモンゴルに住むタタール民族が古くから栽培していたため彼らを表す“韃靼”から「韃靼そば」となったそうです。少し苦味があるのが特色ですがポリフェノールの「ルチン」の含有量が普通のそばの120倍も多く、毛細血管の弾力を上げ血圧降下作用を高め、成人病予防に有効と高く評価されています。そば粥やそば茶としても粒や粉もありますが「そば」は雑穀から自立したスーパーフードですね。

雑穀づくりと“ことわざ”

山の残雪が馬の形になったら田植えの時節と、地域によって言い伝えがあるように東北地方にも雑穀づくりにタイミングや作業を愛でることわざがあります。
・「八十八夜にあわを播け」
地方によって温暖差があり一般には百五の別れ霜(5月20日頃)が適切なのですが、東北では八十八夜の半月後頃からあわ播きの適期となるとのことです。
・「あわの一粒は汗の一粒」
あわ栽培の管理が大変なことからあの小さな一粒一粒に汗がにじむ苦労があるとの例えです。作物栽培に共通することわざかも知れませんね。
・「若い者ときびの穂は盆には出る」
きびの穂は順当ならお盆に出るように村の若者は当然盆踊りにはでかけなさいと若者を後押しすることわざです。
雑穀の農作業にも愛情のある“ことわざ”がたくさんありますね。

“酒と女と祭り”

ちょっと気を引くタイトルにしましたが雑穀の話です。酒造りの元祖は猿で木の祠などに木の実を貯めて自然に発酵したものが “猿酒”で、人間も縄文時代から酒を作っていたことがわかっています。
西洋では葡萄酒づくりに乙女が足で踏んで新酒を作ったり、日本でも地方によって酒造りは女性の仕事となっていました。
酒の原料も多種多様で古くはキビやアワなどの雑穀で作られ、酒は神に捧げられふるまい酒として祭りや収穫祭に欠かせない飲み物として伝承されています。
飛騨のどぶろく祭りや台湾の栗祭りなど、酒は清めの御酒でありふるまい酒として生活文化の必需品でした。
酒は百薬の長といわれたり、禁酒法の時代があったりで何かと物語の主人公になりがちですが、江戸時代から“酒なくて何の己が桜かな”と、長く人生の潤滑油なのです。

雑穀食がもたらした“飯碗”文化

子供の頃から手に茶碗を持って食事するのが日本の食文化でしたが、世界と比較するとどうやら異なります。西洋は皿とナイフとフォークの食卓ですし、身近な中国や韓国でも茶碗を口につけて箸で食べる習慣はありません。陶器も有田焼や清水焼、備前焼、九谷焼と賑やかですし、味噌汁やお吸い物をいただく輪島塗などの漆器の椀と日本独自の食器なのですが、この食生活のルーツは雑穀食がもたらした食文化だと言われています。
白米を主食とするようになったのは、戦後ですがそれまでは、古来の糅飯や雑炊が中心でしたから日常的に使って食器も碗(椀)と箸(短箸)で飯碗を口につけて箸でかきこむ食生活だったのです。
雑穀を様々な形で主食にしたため今の手で持って口元に運ぶつつましやかな“一汁一菜”の食文化が根づき、陶器や漆器の椀でなくても一人ひとりの決まった食器で食事をする文化は雑穀食がルーツなんですね。

持続可能な社会に貢献する“雑穀”

人類の誕生とともに付き合ってきた食べ物、雑穀は民族の最重要な食文化として受け継がれてきましたが、米が主食となると自給的農業は商品作物栽培を中心とした農業に変わりました。それでも雑穀は、しぶとく時を積み重ね暮らしの循環に必要な作物として21世紀につながっています。
雑穀は実を取った後、ワラは緑肥や緑飼として利用され堆肥の原料となり、野菜の連作障害や畑の改良に活かされています。
雑穀は植物栄養学の進展とともに、その高機能性が実証され健康経済社会に無くてはならない健康食材として高く評価されています。
雑穀の生産には課題もありますが、このウイズコロナの経験の中でこれまでの“常識を変える”大きなターニングポイントにして行きたいものです。世界が“持続可能な社会”を提唱するなか雑穀の循環型作物としての特色を見直し、雑穀の本当の力を伝えていきたいですね。

これから機能性(エビデンス)が解明される“雑穀”たち

古代の主食が“ひえ、あわ、きびやそば米”だった時代“雑穀”と呼ばれることはなく、稲作が始まり“米”がその座を奪うと、ひえ、あわ、きびはひとからげに“雑穀”と呼ばれるようになりました。雑として追いやられた感じですが、雑の語源は“おおまかなくくり”でとりあえずの位置ですからこれからそのエビデンスが解明される予備群でしょうか。雑穀予備群は広く未来が期待されます。
古代米の仲間では黒米や赤米があり、麦の仲間では大麦、小麦、押し麦、はだか麦、もち麦、はと麦、ライ麦やエンバクと賑やかです。
豆の仲間も雑穀と呼ばれていますが大豆や黒豆、小豆、青はだ大豆がありますが独立組の雑穀かもしれません。その他にアマランサスやキヌア、ワイルドライスなどが人気の雑穀として注目されています。
21世紀に入り植物栄養素の機能が研究され古代の雑穀たちがスーパーフードとして再び脚光を浴びる時代となっています。

救荒作物から健康救済作物へ

お米が主食になるまで、長い間ヒエ、アワは日本最古の主食で古代の健康食でしたが稲作が始まりお米が主役になりヒエ、アワは雑穀とひとくくりに呼ばれるようになりましたがそれでも飢饉の救荒作物としてヒエ、アワは無くてはならない救済作物でした。
古代は食料として食生活を支えましたが21世紀に入ると飽食の時代の中で生活習慣病の改善に雑穀の植物栄養素が注目され“健康救済食”として世界に広がっています。
ヒエ、アワに含まれるカリウム、ナトリウム、カルシウム、マグネシウムや鉄、亜鉛などのミネラル類がバランス良く含まれており、現代人に不足がちなビタミン・ミネラルを摂る最適な食材として評価されているからです。
2020年の厚労省の発表でも1日当りの食物繊維の基準18gを満たすには雑穀の植物栄養素が理想であると評価しています。血糖値の上昇を抑制し血中コレステロールを下げる雑穀類は現代に欠かせないスーパーフードです。

「五穀豊穣」の休日

古く五穀とは、米、麦、粟、黍、稗や豆で、その収穫を祝う日を「新嘗祭(にいなめさい)」として祭日とされていました。

「新」は新穀(初穂)で、「嘗」は、ご馳走の意でその年の収穫に感謝し、神前に初穂を供えてお祝いをする日で、古く「古事記」にも天照大御神が新嘗祭の行事を行ったと記録されています。

稲作文化の日本にとって「五穀豊穣」を祝う神事は、伊勢神宮をはじめ全国の神社で行われる大事な行事です。

1123日の祝日「新嘗祭」も明治6年に稲作だけでなく全ての勤労に感謝する祝日として「勤労感謝の日」と改められましたが、食物の収穫が休日なのは新嘗祭でしたから残念です。

将来、地球は食糧危機を迎えると予測されています。くまさん農園の雑穀の栽培五穀豊穣は命の生命線です。

東北の縄文文化と雑穀のルーツ(Ⅱ)

土着の縄文人に約3千年前から北東アジアから移住し混血した弥生人とさらに東アジアから移住した古墳人によって現代日本人が形成されたと金沢大学・鳥取大学の研究チームによって古代人のDNA解読から日本人の遺伝的特徴がほぼ一致することが判明しました。北海道・北東北の世界文化遺産の登録が進み秋田でも旧石器時代から縄文、弥生、古墳から16世紀後半に渡る遺跡の研究が進み古代人の生活が解明されてきました。

くまさん農場の近くのハケノ下遺跡の発掘調査からも長い時代の生活様式がわかってきました。米代川の左岸の広がる大野台台地は形成年代の異なる多くの段丘によって構成され縄文から平安時代の遺構・遺物が検出され、鎌倉時代の板立柱建物跡や水田跡、畑跡と考えられる畝状遺構、カマドを有する竪穴建物跡や集落跡の溝跡からは炭化米、雑穀が出土し、古代人の生活の痕跡が確認されています。古代人の豊かさを現代に継承したいものです。